苫野さんのブログを頼りに。
事実学・・・「世界はこうなっているという『事実』を記述する」
本質学・・・
目の前のカップが、本当に目に見えるままに存在しているのかどうかは、究極的には分からない。でも、これが「存在している」ことを、私は確かに確信している。
では、私たちは、なぜ、そしてどのように、そのような「確信」を抱いているのか。その「本質的構造を、あらゆる内的な構造に即して解明すること」、これが現象学の思考法なのだ。内的な「確信」が成立する、その「本質」条件をなすものを解明すること。それがフッサールの言う本質学なのだ。
そのためには? エポケー。そして「現象学的還元」か。
この疑うことのできない内在的確信こそが、現象学の研究する領域なのだ。フッサールは、この内在的確信の領域を「超越論的主観性」と呼ぶ。そして、外部実在の実在性を前提せず、一切をこの超越論的主観性における確信構造へと還元することを「現象学的還元」と呼ぶ。つまり、グラスそれ自体の実在性を問うのではなく、このグラスがなぜ実在していると確信しているのか、その「確信構造」の本質を問うのが、現象学の態度なのである。
そなるほどなるほど。絶対的な真理はなく、それでもなお自分に訪れる確信。「その確信はなぜ、そしてどのように成立したのかどのように成立したのか、その本質を自らに問い、また他者と問い合う」。そこから「共通了解」を見出す。このあたりに質的研究の根っこがあるのだな。